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場の記録   2026. 4. 15​​

「 問いのコミュニティ」の一幕 

       

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​​

 

代表者は、冒頭15分の時間を使って、

 

✔   現代世界やビジネスの状況に触れ

✔   " Collective Conscience "

   (集合的良心)の概念を示し、

✔   それが要請される背景を述べ、

✔ 「これが成立する条件とは」

という問いを置いた。

参加者たちは、

この冒頭15分の語りに対して、

どこに着目し、どこで思考が動いたのかを、

めいめいに 述べた。

 

一人一人、全員が違うことを述べる

結果になった。

その違いは、単なる感想の散乱ではなく、

各自が自分の使っている語やその区別に

自覚的になる契機になった。

​​

たとえば、以下に示す参加者A の

「対決」と「対立」の区別が、それだ。

​​

​1)

参加者Aは、

対決と対立は違うと思っている、

と言った。

どう違うのか、と聞くと、

対立は反目だが、

対決はよりよい方向に向かうためのものだ、とAは述べた。

これに対して代表者は、

それはAさんの作業定義ですね、と言った。

 

ここで参加者に起きているのは、

知識を教わることではない。

自分の語の分け方、意味づけ方が、

場の中で可視化された。

 

" Collective Conscience "

(集合的良心)に関する問いが

置かれたのに、

参加者A には「対決」と「対立」の差

が前景化した。

この、いい意味でのずれこそが、

場の働きとなっている。

この場に来た参加者に起きうることは、

第一に、自分の思考が動くこと。

ここでは「対決と対立は違う」という反応がそれだ。

第二に、その動きが、場の中で、

ことばとして位置づけられること。

「それは A さんの作業定義ですね」

という返しが、それである。

問いに正答することではなく、

冒頭の語りに触れたとき、

自分の思考がどこで動くかが現れ、

この返しによって、

A の発話は単なる感想から一段スライドし、

概念的な行為として見えてくる。

 

2)

" Collective Conscience "

(集合的良心)が要請される背景の一つに、

「 生活や社会における言語実践の荒廃・粗暴化 」

(brutalization of language)

 がある。

ここに反応した参加者Bは、会社の

飲み会の場で起きた経験を語った。

 

そして会の終盤では、

「安心な場の大切さ、

(言語実践における)

 チャーミングなアプローチや

 愉快な表現を大事にしたい」

 と言った。

 

ここで代表者は、その発言を

「それは、つまり……」と名づけ直さず、

いま出たことばを、

そのままメモしたらいいですね、

と述べた。

参加者A の例では、

「対決」と「対立」という

概念の差異への自覚が表に出た。

 

対して参加者 B の例では、

もっと職場の日常風景に近いところから、

✔ 荒廃・粗暴化した言語実践という

  問題に反応し

✔ 自分自身の発話経験を出し

✔ そのうえで、チャーミングな

  アプローチ、愉快な表現、

  という語を置いた。

こちらは自分の振る舞いの語りから、

語が立ち上がる例だ。

 

参加者B が経験したのは、

すでに確立した概念を正確に当てる

ことではなく、自分の体験の中から、

今後の思考の核になりうる語が出て

きた瞬間であった。

 

このため代表者は、

「それは、つまり……」

と概念回収しなかった。

 

仮に、ここで代表者が

それは非暴力的コミュニケーションのことですね、

のように名づけ直してしまうと、

B 自身のことばの生成が、

外からの整理で覆われてしまう。

B にとって、この対話は、

「自分の中から出てきた語が、

 そのまま保持されてよい」

という経験につながる契機であった。

この場で参加者に起きうることは、

二種類ある。

一つは、

自分の中にすでにあった語の区別が、

作業定義として見えてくること。

 

もう一つは、

自分の経験から出てきた、

まだ不安定な語が拙速に回収されず、

その後の思考の核として保持されること。

 

B の「チャーミングなアプローチ」や

「愉快な表現」は、後者にあたる。

 

これらの語は、

まだ定義され切っていない。

しかし、だから弱いのではない。

むしろ、その未定義のままの語が、

B にとっては、このあと考えるべき核になる。

 

A と B を並べると、かなりはっきりする。

 

参加者A では、語の差異が自覚化された

参加者B では、語の萌芽が保持された

 

どちらにも共通しているのは、

参加者自身のことばの動きが、

その人の側に返っていく、

ということだ。

 

参加者は自分の思考や経験から出てきた語を、

すぐに整理・回収されるのでなく、

そのまま保持され、

次に考えるための核として持ち帰る。

 

その語は、

日々の仕事や生活実践の中で、

あらためて問い直されていく。

​​

3) 

" Collective Conscience "という概念にふれた参加者Cは、

会の終盤に、次のことを語り出した。

 

Cは、ある組織の役員だが、

人々が正義を振りかざすことが増え、

一方、他人の痛みに対する感受性が弱化している、

と述べた。

 

代表者はこれに対し、

「人々が」と仰いましたが、

職場ではどうなのですか、と聞くと、

「それが、すごく増えてるんです」と

Cは述べた。

代表者はそこで、

他人の痛みに対する感受性の大切さは、

リチャード・ローティも近いことを述べている、

とだけ添えた。

ここで参加者C に起きているのは、

まず、概念に対する反応の重心が、

社会一般の印象から、

自分の職場の現実へ移ることだ。

Cの語りは一般論のまま漂わず、

C自身が関わっている現場へ移行した。

これにより、

Collective Conscience という語が、

社会評論の材料ではなく、

職場の感受性の減耗という実際に触れる語として働き始めた。

参加者A、B、C の経験を並べると、

A:語の差異が自覚化される

例 対決/対立

B:まだ不安定な語の萌芽が保持される

例 チャーミングなアプローチ、愉快な表現

C:大きな概念が、自分の現場の現状へ接続される

例 Collective Conscience と 職場における感受性の弱化

 

この三つは、似ているようで違う。

A は区別、B は萌芽、C は接続だ。

 

C の例では、

代表者はローティに触れたが、

それを大きく展開してはいない。

つまり、学説や思想の側へ引き込むのでなく、

C の現場感覚が孤立した思いつきではない、

という程度に補助線を引いた。

この抑え方によって、

C の発話は、自分の職場を見つめ返すことばとして保たれている。

 

4)

参加者Dは、最近、読書仲間と世界史を読み返しているという。

そこで、「人権」概念の誕生、そして市民革命に着目したことを述べた。

 

代表者は、

" Collective Conscience "(集合的良心)要請の背景としてあげた

「 職場における相互尊重規範の低下 」( Workplace Incivility ) に触れ、

この概念( Incivility )の中に、

“ civil ”という要素が含まれていることを述べた。

Dは、「あっ」という表情をした。

ここで起きたのは、知識の追加というより、

別々に持っていた線が一本につながることだ。

 

D の例では、

市民革命や人権概念への関心が、

Workplace Incivility  と civility という語を媒介にして、

現代の相互尊重規範の低下と結び直されている。

D は、完成した議論を展開したのではなく、

語が示唆する連関をつかんだ。

参加者A、B、C、D を並べると、

違いは明確だ。

 

A:語の差異が自覚化される

B:まだ不安定な語の萌芽が保持される

C:大きな概念が自分の現場へ接続される

D:別の文脈にあった知が、その場の概念によって結び直される

 

D は、

A のような区別でも、

B のような語の萌芽でも、

C のような現場への接続でもない。

 

D では、知の連結が起きている。

 

しかも、その連結は、

代表者が「つまりこういうことです」

と説明して完了させたものではない。

 

A、B、C、D を見ると、

この場では、

単に考えることではなく、

自分の語・経験・現場・知が、

それぞれ別の仕方で動き出している。

5)

参加者E  は、

" Collective Conscience "

(集合的良心)が成り立たないのは、

内集団・外集団と関係しているのではないか、

と述べた。

代表者はこれに対して、

in-group, out-groupという理論的な

認識に寄せて考えたのですね、

と返した。

すると、参加者Aが、

自分の所属先には、

一般職と総合職という

区別があるのだが、

そこに「分断」があり、

一般職の人たちは、

目の前で総合職が困っていても

動かない、という話をした。

 

この前に、参加者Dが、

" Collective Conscience "

(集合的良心)が要請される

   背景の一つに、

「 他者を支える行為の生起不全 」

( Failure of Supportive Action )

とあるが、

わたしはいろいろな人に支えられて

きたので、そういうものなのかなあ、

と思った、と述べていた。

 

代表者は、

そこで、参加者Aが語った、

一般職・総合職の一件を指し、

Dさん、これが

「 他者を支える行為の生起不全 」の

一例かもしれませんね、とだけ述べた。

Dは、ああ、という表情を示し、

自分に見えていたものが狭かった、と語った。

​​

他方、Aに対して代表者は、

「いまお話になったその現象を

『分断』といわず、

  別のことばで表現できますか?」

  と聞いた。

これは単に「いろいろな意見が出た」という話ではない。

参加者どうしの発話が、

別の参加者の理解を更新し、

さらに語の水準で再検討されている。

参加者E に起きているのは、

D の例に近く、既存の知の転用だ。

 

ただし D が語の連関(市民、人権、civil)に気づいたのに対し、

E はよりはっきり、既知の理論を

この場の問いへ持ち込んでいる。

 

次に、それを受けて A が、

自分の所属先における

一般職/総合職のあいだの分断

についてエピソードを出した。

 

ここで重要なのは、E の理論的枠が、

A の側で職場の具体例を呼び出したことだ。

つまり、ひとりの参加者の理論的応答が、

別の参加者の現場経験を前に出している。

ここで、場は個別応答の並列から、

発話どうしが互いを動かすフェイズへ移っている。

 

また、D は、自分が支えられてきた記憶から、

「他者を支える行為の生起不全」という背景を

まだ十分にはつかみきれていなかった。

しかし A の具体例を媒介にしたとき、

その語が、具体的な出来事として見えはじめた。

さらに代表者はA に、

その現象を「分断」と言わず、

別のことばで表現できますか、

と返している。

これは、

A の話をそのまま社会問題用語へ固定しない応答である。

「分断」という既成の大きな語で済ませず、

その現象に対して、

もう一段、ことばを選び直すことを求めている。

つまり場は、

具体例を出して終わるのでも、

理論名を当てて終わるのでもなく、

語の再選択の水準まで進んでいる。

ここまでの 参加者A〜E をまとめるなら、こうなる。

 

A:語の差異が自覚化される

B:まだ不安定な語の萌芽が保持される

C:概念が自分の現場へ接続される

D:既存の知が新しい連関で結び直される

E:理論的枠が他者の現場経験を呼び出す

 

E の例によって見えてくるのは、

この場では、参加者たちは

単独で考えているのではなく、

他者の発話を媒介にして

自分の理解が更新され、

語が変化するということだ。

 

単なる会話でも、感想交換でもなく、

概念・経験・理解・命名が、

参加者どうしのあいだで連鎖的に動く場として機能している。

 

 

最後に、今回のやりとりを見ると、

代表者は参加者の発話を

✔ 正誤判定していない

✔ ひとつの結論へ収束させていない

✔ 代表者の側の正解へ導いていない

 

むしろ、代表者は発話の流れに応じて、

A の語の区別を作業定義として返す

B の語を名づけ直さず、そのままメモするよう促す

C の社会一般論を現場へ戻す

D の既存知を新しい連関へ開く

E の理論的枠が A の現場経験を呼び出した流れを拾う

A の「分断」を別のことばで言えるか問う

というように、閉じない方向へ流れを保っている。

 

今回起きているのは、

✔ 現象をどう呼ぶか

✔ 差異をどう言い表すか

✔ まだ生成中の語をどう保持するか

✔ 自分の経験をどの概念に接続するか

という水準まで含む、ことばの選び直しである。

 

このように参加者は、

ここでの発話や対話を通じて、

既成語で反射的に済ませるのではなく、

どの語で捉えるかを問いつつ、

自分のことばを試し、

日々の言語実践の場へ還っていく。

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