問いのコミュニティ
名を問い、名を救う
要旨
「名を問い、名を救う」は、誰しもに開かれた行為である。
しかし、その行為は、日常の範囲に閉じるものではない。
未来の人類像、文明の進路、技術と生命の関係を左右する水準にも及ぶ。
PDF版
a.
名を問うことは、未来の見方を問い、
名を救うことは、まだ像を結んでいない
未来の可能態を救うことです。
たとえば、
未来の人類に対して、Homo Deusと名づけることで、
何が見えるようになったか。
端的に言えば、人類が「神に従う存在」から、
「神的な力を技術的に獲得しようとする存在」へ移行する
という構図が見えるようになった。
ここでいう“Deus” は、宗教的な神そのものというより、
神に帰属してきた諸能力の記号です。
たとえば、
人間の寿命を延ばす。
身体や感情や認知を改変する。
生命を設計する。
幸福を操作可能な対象として扱う。
死を運命ではなく、解決すべき技術的課題として捉える。
つまり Homo Deus という名づけは、
未来の人類を「賢い人間」や「道具を使う人間」としてではなく、
生命・身体・幸福・死を自らの設計対象にし始めた存在
として見る視点を開きます。
重要なのは、人類が神的な能力を獲得する過程で何が失われるのかも、
同時に浮かび上がる点です。
たとえば、
判断の座が、人間の内面からデータ処理システムへ移る。
自由意志を前提とするヒューマニズムの人間像が揺らぐ。
人間が生命を設計する一方で、
人間自身もまた設計・最適化・予測・管理の対象になる。
「人類の未来」と言いながら、実際には一部の人間、企業、
国家、計算基盤が、その力を握る可能性が出てくる。
したがって、
Homo Deus という語が前景化したものは、三層に分けられます。
第一に、死・苦痛・幸福・能力を
技術的に処理しようとする人類の欲望。
第二に、生命情報の編集を、自然史的な過程として見るだけでなく、
意図的に設計し、管理し、更新しうる対象として扱う文明段階。
第三に、その神的能力が、人類全体の解放ではなく、
新しい支配、格差、管理、選別を生むかもしれないという反転。
その意味で Homo Deus は、未来の人類の名称であると同時に、
未来社会への警告的な標識でもある。
b.
では、「名を問い、名を救う」とは何なのか。
Homo Deusに引きつければ、次のように言えます。
Homo Deusという名は、人類の未来を照らす。
照らされるのは、
神的能力、生命操作、死の克服、幸福の工学化、
データによる判断、技術的超越です。
しかし未来は、それだけで尽くされるわけではない。
死とともに生きる営みもある。
脆弱性を抱えながら関係を結び直す方向もある。
生命を設計することだけでなく、
生命に応答し続けるあり方もある。
判断、節度、共感、沈黙、受苦、ケアによって
支えられる社会像もある。
人間がより強大になる物語だけでなく、
人間が人間以外の存在との関係を学び直す物語もある。
Homo Deus は未来像を提示する名である。
しかしその名は、未来の可能性全体を指し示すのではなく、
未来のある方向を選択的に可視化する名でもある。
つまり、ここで問われるのは、
Homo Deus という名の正否ではありません。
その名が、どの未来を前景化し、
どの未来を後景化しているかです。
すでに弱く存在しているが中心語になれていない名、
支配的な未来像の外に押し出された名、
まだ制度や市場や技術のイディオムに回収されていない名がある。
それらの名を可視領域へ移すことには、
文明論的な意味があります。
文明は、技術や制度の集積である以前に、
どの名によって未来を想像するかに方向づけられる。
ひとつの名が未来像を組み立てるとき、
その外側には、まだ十分に名づけられていない未来が残る。
c.
ことばは、世界を記述するだけではなく、判断を方向づける。
そしてその判断や実践は、制度や技術や文明を形づくる。
すでに存在していたが見失われた名、
時代の語彙に加わらなかった名、
まだ発語されていない名がある。
Homo Deus という名を問うことは、
ハラリ氏を批判することが主題ではありません。
それは、Homo Deusという名による、
未来像の占有をほどく作業です。
「名を問い、名を救う」とは、
ある時代の想像力を強く方向づける名を問い、
その名によって見えなくなった未来の諸可能態を、
もう一つの名によって見えるようにする行為です。